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映画ライフオブパイの超長編ネタバレ/その他映画のレビュー/あと気がむいたときに羽生くんを応援

とりあえずジュラシックワールド2


とりあえず記事前広告を消さねば

ジュラシックワールド 炎の王国 観ました。8月いっぱいで終わっちゃうのかなと思って、焦って観に行って、焦ってyahoo映画にレビュー投稿して…

『2度目3度目 観に行く予定の人へ』
チャプチャプ名義 で書きました。ネタバレです。


→■2度目3度目 観に行く予定の人へ。 - ユーザーレビュー - ジュラシック・ワールド/炎の王国 - 作品 - Yahoo!映画

おっと忘れてたspan class="deco" style="color:#33CC00;">●オープニング・テンプレ●●●●●●●●●●●●●●●●●●.
このブログは基本 映画のネタバレ レビューです。

作品をまだ観ていない方はご遠慮ください。
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今回は『ジュラシックワールド 炎の王国』
span class="deco" style="color:#33CC00;">●●●●●●●●●●●●●●●●●●.


前回以上に、書きたいこといっぱいで、劇場で観れるうちに はよ書かねばと焦って焦って、焦った割に

エイリアン→ギーガー〜おにゃのこ繋がりで、スピーシーズが背景にあるとこまでしか書けてません、
ホントはもっといくつもの作品が背景にあって、バヨナ監督すげーなと、よくこんだけ盛り込めたものだなと

次回作はジュラシックシリーズの総決算、スピルバーグ監督の総決算となるのかもしれません。

オークションでのインドラプトル紹介の口上は、スピルバーグ監督の長編デビュー作『激突!』(1971)を意識してセリフを組んでいる。
今、10代〜30代の若い人に、生まれる前の作品を予備知識として知っとけ、というのは酷だとは思うが、スピルバーグ監督の原点でもあるので、観ておいて損は無い。

Yahoo映画の『激突!』のレビューの中にも、わかってない系のけなしレビューがあって、あと、インドラプトルの機能?に関して、「ターゲットをレーザーでロックオンした時点で狙撃してれば、インドラプトルいらなくね?」とか………ええい、近ごろのガキ もといオコチャマは!!
わかんないのかな?  同じものを指しているんだよ!?
(そもそもジュラシックシリーズってのはナショナルジオグラフィックみたいな古生物の生態を正確に描き出すためのフィルムじゃないから)

『激突!』と『JW2』を両方観れば、あのタンクローリーとは、インドラプトルとは、いったい何の比喩なのか? ピンとくるかもよ?



続く


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元祖70年代バージョン


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復刻版、別の作品みたいですね



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SEIMEIとシルクロードと五芒星 の2

前回 2月17日の記事の続き 太字グレー部分は前回との重複表記



【SEIMEI】

《小説:陰陽師》の作者:夢枕獏さんが、90年代に雑誌「ダカーポ」にエッセイを連載してまして、その中に板東玉三郎さんのお稽古を見学したときのエピソードがありました。
劇の通し稽古の途中、どうしてもすんなりセリフがでてこない箇所があり、思案したあげく、玉三郎さんはセリフの一部をほんの少し変えて解決した、という内容だった?と…

あやふやな記憶では、「しかし」を「だが」に変えたくらいの、意味はほとんど同じような変更。
その ほんのちょっとの差が、気が合う、呼吸が合わないということなのであろうか??? 当時はそんな風に曖昧に把握していました。


羽生結弦選手がSEIMEIの曲の冒頭に、自身の息を吸う音をかぶせているのを知って、道を究めようとする人はジャンルは違えど、呼吸というものに無頓着ではいられないのだなと過去の記憶がよみがえり、確認のため、そのエッセイを単行本で読み返したら、予想外にSEIMEIに関連が深い内容だったので、引用掲載します。

夢枕獏氏が脚本を書いた
《三国伝来玄象たん[さんごくでんらいげんじょうばなし]》

★板東玉三郎さんが主役の沙羅姫
中村勘九郎さんが、相手役の蝉丸
中村橋之助さんが安倍晴明

あらすじ

時の帝 村上天皇が大事にしていた唐渡りの琵琶(玄象)が、ある時、何者かによって盗まれてしまう。盗んだのは沙羅姫。←この時点では、ヒトではなく鬼と化している。

夜な夜な羅城門で玄象を奏でる沙羅姫のところに、陰陽師安倍晴明が玄象奪還にやってくる。
沙羅姫はそもそもは天竺の姫であり、宮中の楽人と恋に落ちたことから、国にいられなくなって、唐の都の長安まではるばる逃げてきた…という背景がある。

上演されたのが1993年なので今から見に行くのは無理である

せめてもの よすがとして、

『三国伝来…』の台本を収録した単行本は

●『絢爛たる鷺』



94〜95年、雑誌ダカーポに連載されてたエッセイをまとめた単行本

●『その日暮らしの手帳』
○『その日暮らしの手帳2
   猫待ち月夜』

新作歌舞伎や玉三郎さんのお稽古に言及しているのは上巻


ちなみに、エッセイ集の方は、タイトル・著者名でアマゾンで検索するとkindle版しか出てきません。
(『絢爛たる鷺』の方は文庫がある)
紙ベースのが読みたい場合は、むにゃむにゃ…

小耳にはさんだハナシでは、5月15日に羽生くんと夢枕獏先生が顔合わせするかもしれないので、古本とか図書館とか滅多なことは言えないのであった。

みなさん、

買って

読みましょう!!

力尽きるほど力説!
ぶっ壊すほどヒート!!



で、くだんのエッセイから引用するよ。

読み返してよかった。うろおぼえの内容とかなり違ってた。



Amazonのレビュー・紹介文などをまとめると、
この少し前(1990年頃)の時期から、夢枕獏先生は、書きたいネタはたくさんあるのになぜか燃えないスランプ状態で、友人の絵師 天野喜孝さんの誘いで板東玉三郎さんの舞台を見に行く。
それがきっかけで新作歌舞伎書き下ろしとなり、公開間近に「是非お稽古を見学させてほしい」→「もちろん、獏さんは原作者ですから…」と玉三郎さんの快諾を得る。

で、ダカーポ連載のエッセイでその模様の描写。

歌舞伎の稽古の日程が

9月26日 約2時間

9月27日 約2時間

9月29日 約3時間

10月01日 初日 
>新作であろうとも、歌舞伎の稽古というのは、
三日間で4回ーー全部でおよそ七時間もやれば、初日をむかえることができてしまうのである。
 だそうな。

で、玉三郎さんは、夢枕獏先生の見学にさきがけて、

>「獏さん。稽古を見に来ても驚かないで下さいね。なんだこれは、こんなんで幕が開くのーーと思うかもしれないけれど、ちゃんと開くんですから」

で、玉三郎さんは言うに及ばず、演出、振り付け、三味線等、担当する方々皆 百戦錬磨で、「そこのところもう少しこんな具合にならない?」「こんな感じですか?」「ここは『(他作品名)』のあの感じで…」と以心伝心、修正・決定がたちどころに決まってゆく、

なんだろうこれ。この感じって、なんかアレに近いものがあるなぁ。歌舞伎なんて全くの門外漢なんだけど、なんか、記憶にある…
というのは私の個人的感想だけど

一流漫画家とチーフアシスタントの以心伝心と被るわ。センセイが細かく指示出ししなくても、ちゃんと通じて、完璧に仕上がっていく感じ。
(プロ漫画家のスタジオにお邪魔したことだってなくて、こっちも門外漢なんだけど)

そんなこんなで、短期間の稽古でもどんどん仕上がってく。


>稽古をしていきながら、修正されていくのは、作曲や振り付けばかりではない。

台本の方も、細かななおしがいくつも入ってくる。
書きかえたり、削ったりと色々な作業があるのだが、そのうちのひとつで印象的であったのは、稽古がある場所にさしかかった折、
「わたし、これだとちょっと出づらいわ」
と、玉三郎さんが言った時である。
琵琶の玄象を、内裏より奪った沙羅姫が、安倍晴明の手によって、その玄象を奪いかえされるシーン。
文楽座の三味線と浄瑠璃が入って、次が、玉三郎さん演ずるところの沙羅姫の台詞である。

〜♪ わが身に残るその怨み、焔[ほむら]となりてわが身を焦がす。苦しや切なや耐えがたや。

 沙羅  もはやこれまで。この玄象、自らが手で打ち砕かん。

この沙羅姫の台詞が出にくいというのである。浄瑠璃の最後の“耐えがたや”が、もう少し別の言葉にならないであろうかということなのだが、どのような演劇上の生理、あるいは板東玉三郎という役者のどのような生理によるのか、はじめ、ぼくにはよくわからなかった。
三味線と、歌の調子を少しかえて、何パターンかやってみたのだが、やはり、うまく出られない。

ぼく自身は、では“あら熱や[あらあつや]”というのをかわりに入れて見てはどうかと考えたのだが、やはり、それもうまくない。

結局、“くちおしや”というところに落ち着いたのだが、それでやっていくと、よい間で玉三郎さんの口から、
「もはやこれまでーーー」
が すんなりとでてくるのである。
こうなって、はじめて、出にくいと言った玉三郎さんの言葉の意味が、ぼくにも理解できたのであった。
つまり、「もはやこれまで」に いたるまでの間に、感情の盛りあがりというのだろうか、情[じょう]の間とでもいうのだろうか、舞台上の呼吸のようなものがあって、その呼吸に、曲のリズムや調子や、言葉のもつ重力がうまくのらないのである。
言葉を、いったんかえてみると、いとも軽々と、そのリズムというか、間に、玉三郎さんの感情、呼吸が重なってゆく。
このあたりは、ぼくにとって、魔法を見るようであった。





引用長くてすまんの いつもいつも

結果は出てる。
“耐えがたや”ではダメで、“くちおしや”なら うまくいった。
二つの言葉の差異、アリ・ナシを考察すればいい。

沙羅姫の玄象への想いを汲み取れば、そもそも耐えるべきことがらだろうか?
玄象は沙羅姫のものであり、引き裂かれる辛さに沙羅姫が耐えなくてはならない道理はない。
その上、“耐え 難し”と不全感のワードが続く。
耐えなくともよいのに、耐えなきゃならんように錯覚してしまう。さらにそれができないと自分を責めてしまう。
“耐えがたや”は、心に二重に蓋をしてしまうような、どこまでも沈み込んで下降の一途をたどる文言だ。

だから、どん底まで堕ちて、沈殿物が発酵して、再び浮上してくるには長い長い間[ま]が必要となる

浄瑠璃の歌詞を受けて、その直後に、沙羅姫のヤケクソの開き直りの決意表明が出ないのは、発酵浮上の間が設けられていないからだと思われる。

仮に自分が、映画や漫画の絵コンテを作成する立場だったとして、
「耐えがたやぁぁぁぁ…」という嘆きの直後に、
「ええい、もはやこれまで」と方向転換の上昇の図は持ってこれない。
(変わり身 早すぎるやろ)

漫画なら最低見開き2ページは要るんじゃないかな。
カットバックでの回想シーン。
陽光のなかで幸せな姫だったころ、恋人とともに楽の音に聞き惚れた日々。国を追われ、天竺から長安へ落ち延び、そして…逃避行のあれやこれや。思い出の玄象を奪いかえしたのも束の間、物凄く強い追手(晴明)によって、玄象は再び我が手から奪われることになるだろう…
そうなって初めて、「もはやこれまで」
むざむざ奪われるくらいなら、自分で壊したるわ。心中やね。

「耐えがたや」を修正せんことにはどうしても長い間がいる。

ならばなぜ「口惜しや」なら「もはやこれまで」に、うまくつながるのか?

つづく

SEIMEIとシルクロードと五芒星

【SEIMEI】

《小説:陰陽師》の作者:夢枕獏さんが、90年代に雑誌「ダカーポ」にエッセイを連載してまして、その中に板東玉三郎さんのお稽古を見学したときのエピソードがありました。
劇の通し稽古の途中、どうしてもすんなりセリフがでてこない箇所があり、思案したあげく、玉三郎さんはセリフの一部をほんの少し変えて解決した、という内容だった?と…

あやふやな記憶では、「しかし」を「だが」に変えたくらいの、意味はほとんど同じような変更。
その ほんのちょっとの差が、気が合う、呼吸が合わないということなのであろうか??? 当時はそんな風に曖昧に把握していました。


羽生結弦選手がSEIMEIの曲の冒頭に、自身の息を吸う音をかぶせているのを知って、道を究めようとする人はジャンルは違えど、呼吸というものに無頓着ではいられないのだなと過去の記憶がよみがえり、確認のため、そのエッセイを単行本で読み返したら、予想外にSEIMEIに関連が深い内容だったので、引用掲載します。

夢枕獏氏が脚本を書いた新作歌舞伎《三国伝来玄象譚[さんごくでんらいげんじょうばなし]》

★板東玉三郎さんが主役の沙羅姫
中村勘九郎さんが、相手役の蝉丸
中村橋之助さんが安倍晴明

あらすじ

時の帝 村上天皇が大事にしていた唐渡りの琵琶(玄象)が、ある時、何者かによって盗まれてしまう。盗んだのは沙羅姫。
夜な夜な羅城門で玄象を奏でる沙羅姫のところに、陰陽師安倍晴明が玄象奪還にやってくる。
沙羅姫はそもそもは天竺の姫であり、宮中の楽人と恋に落ちたことから、国にいられなくなって、唐の都の長安まではるばる逃げてきた…という背景がある。

上演されたのが1993年なので今から見に行くのは無理である。『三国伝来…』の台本を収録した単行本もあるというところまではggったが
まだストーリーは読めてない。


詳細は後述ということで逃げるが、安倍晴明の活躍した時代は、シルクロードを通じて世界の文化が日本に流入してきた日本の国際化 第一陣である。ということを指摘したい。

沙羅姫の恋物語と、安倍晴明との対決は、夢枕獏氏の創作であるし、『陰陽師』とはまた別の世界であるが、

陰陽寮は天文や算術、理知の領域で、決してあやふやな迷信や魔術の領域ではない。
五芒星は世の実相が螺旋であることを示し(螺旋はアウフヘーベン)、六芒星はさらに二重螺旋であることを示す。
ついでに言えば、コンパスを使って正五角形の書き方を見いだしたのはピタゴラス。正五角形の各辺を延長させた交点までが五芒星。ピタゴラスって、あの「ピタゴラスの定理」のピタゴラスですよ。幾何学の。
ピタゴラスのアカデミーの生徒たちは、そのこと(正五角形すげーだろ)を誇りとして、正円に五芒星を校章として身につけていたそうです。

シルクロードの果ての天竺、さらに西域の中近東からガラス器なども宝物として極東の島国にやってきた時代。陰陽師が魔物退治に頼りにされたのは、生きるのに困難な、魔に囲まれたような闇から、理知に救いを求めたがゆえでありましょう。式神の「式」は数式の「式」。

護符や魔方陣や九字の印を迷信だと馬鹿にするのではなくて、迷信にすがってでも何とか生き延びたい、幸せになりたい。生きるのがなぜこれほど困難なのか? その問いに答えを求めて知恵のある人に助けを求めた。それは世界各国の普遍であろうと思われます。読み取るべきは各国各時代 生きるための必死の願い。

そして、平安時代に世界中から届いた英知や技術や命の表現の集大成を、今、日本から世界に発信する。
オリンピックにこれ以上ふさわしいプログラムがありましょうか?

かねてより羽生選手は、「和のプログラム」であることをアピールしていたけれど、単純に和の楽器だから、平安時代の物語だから、という浅い理由ではないように思いました。


つづく

だって、玉三郎さんの呼吸の話、まだ全然書いてないもんね。
急いでハナシのつかみだけ書いたのは、アンチがまた「プロ持越し〜」と騒ぐだろうからです。
オリンピックだからこそSeimaiなんだってば
















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熟成塩漬け原稿


【悪魔の鏡】

アンデルセンの『雪の女王』のプロローグに、悪魔の鏡の話があるのですが、子供向けの絵本では割愛されることが多いので、知らない人もいらっしゃるかもしれません。

雪の女王』は、地上の悪魔たちが退屈しのぎに悪魔の鏡を作るところから始まるんです。
その鏡に写すと、美点が逆転して欠点に写ります。じゃあ欠点は美点に写るのか? というとそうではなくて、ほんのちょっとでも欠点があれば、ものすごく誇張されて写る。
目元のチャームポイントの泣きボクロが、顔全体を覆う醜い痣になって写る的な。
要は、どんな美しい人でも、感じのいい表情の人でも、みんなみんな、醜く不快な人間に写るというヤな鏡です。

悪魔たちは地上のあらゆるものをこの鏡に映して、嘲笑三昧ではしゃいでいましたが、ある日「この鏡で神様を映したらどんな風に見えるだろう?」と思いついて、皆で鏡を担いで天に昇って行きました。
天上界に咲き乱れる花々も醜く汚い枯れ草に映る、麗しい天使たちも爆笑モンの変顔に映る、神のおわす高みまでもうすぐだ、もうすぐだ、悪魔たちはワクテカで昇って行きましたが、次第に鏡がミシミシ軋みだして、あと一歩のところで、神々しい光に耐えかねて、鏡は粉々に砕けて地上に降り注ぎ、悪魔たちは地に落とされました。
んで、砕けても鏡の機能はそのままなので、このカケラが目に入ってしまった人間は、悪魔の鏡を通してものを見ることになってしまう。カケラが心臓にささった人は、悪魔の鏡のように世の中すべてを醜くて価値が無いものだと感ずる。美点はすべて曲解・反転。ものごとの欠点は針小棒大に拡大して認識する。
(神様後始末雑杉)

カイ少年は賢い子でしたが、優しい子でもあったので、幼いゲルダの面倒をよくみて、遊び相手になってあげていました。いつものように二人が庭で遊んでいたとき、カイが「あっ」といって、目と胸を押さえ、ゴミが目に入ったような痛みはすぐおさまったものの、はい、悪魔の鏡のカケラが目と心臓に入ってしまったんですね〜。
それ以来、カイはゲルダをウザがるようになって、いちいち、幼い者の言動をバカにして見下すようになってしまったんです。
そんなとき、雪の女王の橇が通りかかり、「賢そうな少年だこと」と誘われるままにカイは女王についていってしまって、ゲルダはカイを探しに旅にでる。

結構、前振り長いんですよ。

で、いろいろあって、艱難辛苦、ゲルダは女王の宮殿にたどりつくけれども、カイはゲルダに見向きもしない。氷のパズルを解こうと夢中になっている。女王が留守の間に出していった宿題で(知育パズル?)、「パズルを解くことができたら全世界をお前にあげよう」という約束なので。
氷の床にすわって、手足冷えきっているのでゲルダがさすってあげても効果なし。どうしていいかわからず、ゲルダが泣きながら主の祈りを唱えると、涙がカイの目と心臓のカケラを流し去って、カイは正気にもどる。
パズルの氷片がキラキラ踊って、自動で収まるところに収まって、パズルも完成。
んで、二人で故郷へ帰ってハッピーエンド。

アンデルセンは熱心なクリスチャンなので、宗教色が強い勧善懲悪の話が多いです。
私もいい加減すれっからしなんで、無垢な幼女の祈りと涙で呪いが解ける、みたいなハナシはさすがにケツがこそばい感じがするのですが、ええい黙れ! 無垢な力を舐めたらたらあかんのじゃー

悪魔の鏡が、辛辣な批評家達の暗喩であることは言うまでもない。
アンデルセンという人は、真面目すぎて神経質で、見た目もイケてないタイプで、童話で認められる以前は、戯曲や外国の詩の翻訳を書いていたけれど、酷評嘲笑ばかりだったそうなので、色々思うところがあったんでしょう。

まあ…つまりアンチってのは そういう生き物なんですよ。目にも心にもカケラがグサグサ。
反省するとか、誤解を解くとかの機能がはじめから搭載されていないスペック。まっすぐな性格のファンが、誤解を解こうとルールとか説明してあげても、貶したいから貶してるだけなので時間の無駄なんだわな。


この【悪魔の鏡】の項は、実は2014年秋、ファントムの頃に書いたものです。金メダルの快挙にも関わらずネットでの誹謗中傷に呆れてキレて。ソチにわかの私にとっては信じられない書き込みの数々でした。

けど、「なにを言っても無駄!」な相手に字数費やすのが段々虚しくなってきて、しかも上海のあのアクシデントでなにも手に着かなくなり、中断したまま3年塩漬けw

このまま自己ボツでいいかなと思っていましたが、昨日(2018/02/16)のノーミスSPのあとでも、アンチは元気いっぱい平常運転なので、書き足してupすることにしました。




>『私は否定する霊です』
というのは、ゲーテの《ファウスト》で、悪魔メフィストフェレスが自己紹介の時に言うセリフ。

平安時代にも、そういう輩は跳梁跋扈していたのでしょうね。いつの時代にも。















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誰も聞きたがってない婆さんの思い出話

注)ものすごくくだらない内容です。

前回、四年前の大雪画像upしてから、そー言えばこの頃はまだ羽生くんのファンになってなかったんだなー と思い出すことしきり

こんなにも走馬燈が花びら大回転だと余命いくばくもない気がしてきて、後代のために書き記しておこうかと。


あれは2013年の晩秋? 晩飯後 洗い物しながら、報ステのスポーツコーナーを観るとも無くつけっぱにしていたら、なんか病弱そうな線の細い選手が特集されてまして、喘息で苦しくて、息が出来なくて、このまま死んじゃうのかと思った とか暗い過去を語っていたのを記憶しています。
ただ、その時は洗い物しながらのテキトーな視聴だったので、私は喘息と肺炎と風邪をまぜこぜにしてしまって、あったかくしてればイイのになんで寒いとこでスケートやるんだろ みたいなさめた温度で。
ほんで、その…………私は、てっきり、この子はそういう『枠』で取り上げられた選手なんだと勘違いしてしまったのです。
ほら、よくあるでしょう? なんかしらの事情とかハンデやビハインドを背負って、仕事の合間に少ない時間をやりくりしてトレーニングしている市民アスリート とか、シングルマザーだけど周囲の協力に支えられて次の国際大会をめざしています的な。
スポーツってこんなに素晴らしい! 喘息だけど、僕 スケート頑張ってます!

………という。そういうポジションだと勝手に勘違い

あの時点では、私は羽生結弦という選手が、どれほど高い評価と実績を勝ち得てきたヒトなのか全然知らなかったんでございます

昔っからフィギュアスケートの中継観るのは好きで、伊藤みどり選手が三回転バンバン跳んでた頃から、ザッピング→あ、スケートやってる、観よ♪ な かんじの温度ぬるめな、それでも一応ファンのつもりでした。
けど、長らく遠ざかっていて赤丸急上昇のメダル候補の名前も知らなかったんだから、そんなんじゃ真のファンとは言えない!と叱られるかな。
人の為と書いて偽のファンですw



それから程なくして、また晩飯後の後片付けの最中に、今度はいきなりゲイリー・ムーアが聞こえてきて、なんで今時分 報ステゲイリー・ムーア? 何事!? とパニクったら、あっ、あの喘息の子じゃん、「はにゅう」という名字は印象に残っていた。まだまだボケとりゃせんぞぅ
二度目の邂逅で、羽生選手は『枠』とかじゃなくてガチのメダル候補なのだという子細は飲み込めたのだが、にしても、なんであんな若い子がゲイリー・ムーア???と謎は深まるばかり。
あの子絶対 誰か悪い大人に騙されたんだ。と思いました。当時は。
きっとコーチの趣味なのねー。とか


純正の羽生ファンにとっては、パリ散はまさに「羽生選手の曲」なのだと思いますが、横道から入ったオバサンには「ゲイリー・ムーアの曲」で、ほんっと〜にあの曲でオリンピックに出るつもりなのかと半信半疑。

だってさ〜、80年代に「将来、オリンピックでゲイリー・ムーアが流れる」って予言しても誰も信じなかったと思うの。

ちなみに私が持ってるパリ散の音源は、グレッグ・レイクがゲイリーと組んでツアーしてた時期のライブアルバム。グレッグがVo入れてるパリ散。

んで当日、
オリンピックの大舞台でゲイリー・ムーアが流れる異次元空間を見届けて歴史の証人になるのだ〜と意気込んでみたものの、睡魔に負けて熟睡。
なのに、明け方、羽生選手の滑走直前にバチッと目が覚め、あの新記録SPとキスクラでのガッツポーズをみることができました。
ごめんなさい。もう二度と あの喘息の子 なんて言わない。

あどけなく華奢に見えても鋼の細マッチョで荒ぶる若武者。
なるほど、これが若い世代の言うギャップ萌えというヤツか。
ゲイリー・ムーアのパリの散歩道でギャップ萌えに出会ってしまいましたよオバサンは。

とはいえなかなか素直になれない年頃なものですから、
「か、勘違いしないでよねっ ゲイリー・ムーアが聞きたかっただけなんだからねっ」
…………………………………<中略>…………………………………




で、現在に至る














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