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映画ライフオブパイの超長編ネタバレ/その他映画のレビュー/あと気がむいたときに羽生くんを応援

『ジュラシックワールド』その3

●オープニング・テンプレ●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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このブログは基本 映画のネタバレ レビューです。

作品をまだ観ていない方はご遠慮ください。
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今回は『ジュラシックワールド

すでに作品を鑑賞済みの方は、
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↓スタート
その1:映画comに 投稿済みと同内容
その2:追記
その3:このページ

とお進みください
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【美奈子とフランケンシュタイン
人間の手で作り出された被創造物が、創造者と憎み合う物語。
メアリー・シェリー著
フランケンシュタイン
SFの古典の一つです。

ポイントを押さえた解説本として、
   ↓
NHKテレビテキスト 100分 de 名著 
メアリー・シェリ
フランケンシュタイン』》

が、約1年前に出ています。まだ店頭で買えるかな。古本ならAmazonで買える。のは今確認した。
解説本としてわかりやすいし、著者の見識が深いので詳細は是非そちらを参照して欲しい。解説者:廣野由美子氏は京都大学大学院教授だし、フランケンシュタインに並々ならぬ熱意を寄せておられるので参考になるはずだ。

昨年の世選前に、羽生くんネタで『オペラ座の怪人』について書く予定で、でも期を逸してしまったのだけれど、『フランケンシュタイン』を読んでおくと、『オペラ座の怪人』のテーマ性にも気づきやすい。(たぶんオペラ座…の源流にフランケンがある)
  ↑
ガストン・ルルーの原作小説に関してです。羽生選手のプログラムにフランケンが関わってるという意味ではありません。



映画の『ライフ・オブ・パイ』→ウィリアム・ブレイク とも関連があるので、つまり、今後書く予定の記事に重複して絡んでくるので、

この機会に、『ジュラシック・ワールド』に絡めて書いてしまう。
映画とはかなり違う、原作小説『フランケンシュタイン』について。

小説のネタバレになるので、白紙の状態で読みたい人はココでいったん画面を閉じてください。
ネタバレ上等な人はどぞ
  ↓






ポイント1
フランケンシュタインというのは、怪物を作り出した人物の名前で、つぎはぎの大男には名前はない。

ポイント2
幾多映画化され、不気味なゴシック・ホラーのイメージだが、原作小説は別個の魅力や示唆を含んだ作品。

ポイント3
抽象的なテーマが優先で、そのため、ストーリーに辻褄の合わない箇所、骨格が露出してしまっている部分がある。


ポイント3が、原作小説『オペラ座の怪人ガストン・ルルー著 との共通点。
それとたぶん『ジュラシックワールド』のストーリーのギクシャクも。


廣野氏の深い解説には遠く及ばないが(思いっきりはしょっちゃうし)、
まず、主役のヴィクター・フランケンシュタインは、むっちゃイケメンの好青年です。墓場で死体を掘り返す不気味なマッド・サイエンティスト的なビジュアルではない。
そしてあきれるほどのリア充である(←これが重要)

スイスの名門の豊かな家に生まれ、御両親は人格者で愛情深い。代々 共和国の要職を務めた家柄で周囲の人々からも敬愛されている。
両親の美点を余すところ無く受け継いだヴィクターは、容姿端麗、聡明で闊達、時に激昂しやすい側面を見せるが、基本 優しくて、向上心があり、知的好奇心旺盛、教師からも一目おかれ、欠点らしい欠点は皆無である。くそ。
(でも四回転は飛べないから大丈夫)

なに不自由無い少年時代。両親は息子に世界を見聞させるため、家族でイタリア旅行に。旅行先の農家で、ひなにはまれな美幼女を見かける。家の者に事情を訪ねると、やはり高貴な家柄の娘で、わけあって身寄りがなくなったため、とりあえずウチで面倒をみているのだが、という返事。
御両親はその女の子(エリザベス)を引き取り、ヴィクターは宝物のように大切にする。やがて美幼女は美少女に。そして世にも可憐な乙女に。二人は当然の成り行きで愛し合うようになり、両親も周囲もふさわしい縁組みと祝福し、婚約者の間柄となる。
(今これを読みながら、歯ぎしりして悔しがっている男子はいかほどの数に上ろうか?)
もーむっかむかするほどのリア充っぷりなのですよ。
それだけの幸せにも満足せずに、生命の神秘に取り付かれ、この手で命を造りだそうと人造人間の研究に没頭していく。
(素直にエリザベスと子供つくってりゃよかったのに。ちなみにエロゲの世界とはわけがちゃうんで、エリザベスは結婚するまでは処女だ。そして初夜に殺されてしまう。ああもったいない。貴重なエリザベスが)

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繰り返す、これは訓練ではない、この無駄にリア充すぎる設定が実はすごく重要。

読者の(私だけかもしれないが)漠然とした反感が爆発するのが、研究が成功して「怪物」が命を持った瞬間。
リア充野郎は、怪物のあまりの醜さに逃げ出してしまう。(←おい)
実験室から寝室に逃げ込み、疲労が襲ってきたのでベッドに身を投げ爆睡(←おーいー)
悪夢にうなされ目が覚めたら目の前に怪物がおったのでパニクって戸外に逃げ出して一晩中庭をうろらうろらと…、朝になって旧友と再会し、気を取り直して部屋に戻ると怪物は姿を消している。
それを、「よかった、もういない」と喜んで探しにも行かないんですよ。
その後、研究に没頭して不眠不休で無理をしたのがたたって、長く病床にふせってしまって…
怪物が命を持って姿を消してから、まる2年もの間ほったらかしなんですよ奥さん


もぉぉぉぉ!そのくだりがひたすらグジャグジャ言い訳ばっかりでっっ、最初に読んだときはワタシもまだ20代だったので、ばっかじゃねーのこいつグジャグジャ言ってねーで人を集めてただちに山狩りでもなんでもして怪物の身柄を確保せんかーい!と 怒り狂いながら読んでいました。ページをめくってもめくっても言い訳言い訳言い訳さらに言い訳ばっかり何だもんっっ
図書館で借りた本じゃなかったら床にたたきつけて踏みにじっていたところだ。
長らく夏目漱石の『それから』の代助が、ムカつく主人公ナンバー1として私の中に君臨していたのだが、世界は広かった。ヴィクターこそがワールドチャンピオン「世界一ムカつく主人公」だ。


ヴィクターが言い訳三昧の頃、怪物は、自分が何者なのか わけも分からずさまよい、不気味な容貌のため差別され迫害に合う。
廣野氏が強調しておられるように、怪物は赤ん坊のように無邪気で、外界を吸収し、言葉を知り、文学や音楽、真・善・美の徳を学ぶ。そして、人間も獣も鳥も男女という対になる相手と結びあうことを知る。けれど自分には、それら「善きもの」は決して手に入らないと絶望し、当初の無邪気な存在から、自分を作り出したヴィクターへの復讐、人間達への憎悪→殺意に変貌していく。

詳細を省きすぎだと廣野氏に叱られてしまうかもしれないが、枝葉を落としたときに本幹がようやく見えてくることもある。

「もっとも豊かな恵みを受けた者が、絶望的に救われない惨めな存在を作り出す」
  ↑
これが本幹。



この対立構造の背景に、作者メアリー・シェリーが生きた時代の

啓蒙思想(庶民に人間としての目覚めを促す)
  ↓
フランス革命、暴徒が貴族の館を襲撃&略奪&大虐殺
ナポレオン時代、フランスの欧州侵略
(当初被害者だった側が恐るべき殺戮者・侵略者に変貌)

英国においては、

独立戦争で植民地アメリカを失う
  ↓
技術革新、産業革命
  ↓
貧富の差の拡大・児童の強制労働
  ↓
充満する貧困層の怒り・ラダイト運動
  ↓
不満分子を封じ込めるための徹底弾圧

 がある。


そして、
この対立のメタファーを描き出すためには、怪物にはいったん一人でさまよい、外界を知り、自分の境遇を知ってもらわなければならない。自覚のための時間的猶予を作り出す必要があった。
そのための、ヴィクターのグジャグジャ言い訳、放置プレイ、リア充設定なんですよ。

怪物誕生時の研究室に話を戻すと、
目覚めたばかりの怪物はぶっ倒れたヴィクターを造り主と認識することもできず、ひとまず研究室を出る。裸だったので、ヴィクターの服を着て出るのだが、後に文字を覚え、知性を得たあとで、ポケットに入っていた日記を読み、ヴィクターの所在と、彼こそが自分の「親」だということを知り、人目を忍んで会いに出かける。
怪物はヴィクターに、最後にして唯一の望み、自分のパートナーを作ってほしい。♀の人造人間を作ってほしいと懇願するが、既にヴィクターの周囲の人間を複数殺しているので、ヴィクターは手酷い仕打ちで拒否。
以降は修復不可能な憎悪のドラマ。負の連鎖。

いったいあんたら何やってんの、もう少しうまくやれないの?って言いたくなりますが、そもそも対立を描くための設定だからしょうがないのよ。
雛が最初に目にしたものを親だと慕うように、怪物がヴィクターになつき、そしてヴィクターが、作り出した生命を責任もって育てていたらメデタシメデタシなんだが、それじゃ描こうとした本幹から永遠に遠ざかってしまうんです。

テーマ性優先の作品にはえてしてこういうケースが多い。
登場人物の言動が不自然だったりご都合的だったり、辻褄合わせのあれやこれやが、主人公の好感度を著しく下げる場合もあるんです。


子供のころ最初に出会う物語は、うまくいく話、わくわくする話がほとんどだ。ビバ!友情努力勝利!!
勧善懲悪で悪い奴はやっつけられるし。主人公は文字通りヒーローで、応援したくなるような、共感を覚えるような、カッコイイ奴と決まってる。そうでなきゃヒーロー失格じゃん。ヒロインもまた、友達になりたくなるようなきれいでやさしい女子力高い子じゃなきゃあね。

だがテーマ性優先の作品では、主人公が欠点だらけでヤな奴であることもあるし、主人公のありえない判断ミスで最悪の結果になる場合だってある。



最後の望み(自分の伴侶)を拒否されて怒りに燃えた怪物は、「おまえの婚礼の夜に会いに行くからな」と捨て台詞を残して姿を消す。
怪物はヴィクターの周辺の人物を次々に殺していくので、次に狙われるのは当然エリザベスだろうに、ヴィクターはターゲットは自分だと思いこんで、婚礼の夜、寝室にエリザベスを一人残して、怪物がどこに潜んでいるのかと探しに出かけてしまうんです。アホや。
映画でこんなシーンがあったら酷評だらけですね、きっと。わざわざ怪物がエリザベスを殺しやすくしてあげるような行動。
実はまさにその通りで、作者が描こうとしたテーマのためには、ヴィクターと怪物は決裂してもらわなければならないし、そのためにはエリザベスには殺されてもらわなければならない。
一方、作者の制作意図なんておかまいなしの鑑賞者(読者・観客)は、麗しのエリザベスがなんとか助かってほしい、ヴィクターが花嫁をちゃんと守りきる展開を期待している。だから、わざわざ花嫁を一人にするヴィクターには失望を通り越して侮蔑の念を覚えるし、話作りがヘタクソだと酷評したくなる。

が、ハッピーエンドを書こうとして失敗したわけではないのでヘタクソではないんです。
むしろ、全体の構成をつかんだ後で読み返すと、作者の筆運び・推理小説で言う叙述トリックの巧みさに舌を巻く。

花嫁を一人にする理由として、彼女を危険なめに合わせられないから と、故郷に彼女を残して、前線に出かける兵士のような言い訳。
随所で言い訳をたっぷりヴィクターに語らせる為に一人称の文体を採用。「私はこう思った。」「そのときの私にはそれが最良の方法に思えたのだ。」「しかし、突然違う思いに襲われた。」云々。

言い訳の為の一人称を成立させるためには聞き手が要る。
その聞き手がウォルトン

小説『フランケンシュタイン』は、オープニングにウォルトンという青年が、故郷の姉に手紙で近況を知らせるところから始まる。ウォルトンの一人称。姉は教養ある女性らしい。弟は姉に深い敬意をはらっている。
手紙の中で、「姉さん、素晴らしい人物に出会いました」とヴィクターとの出会い、ヴィクターの驚くべき身の上話、と続き、ヴィクターの一人称に移行する。

はじめにウォルトンが、ヴィクターのことをたっぷり誉めるので、読者はヴィクターがなかなかな人物であることをすんなり受け入れる。
途中からのヴィクターの言い訳に戸惑いはするが、作者が対立を描くため、わざわざ最悪の方向へ話を引っ張っていこうとしているとはなかなか気付かない。
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好むと好まざるとに関わらず、そういうタイプの作品もあるってことです。
そこのところを読み切らず、
こんな主人公絶対に許せない。もっと魅力的なキャラにすべきだった、などという憤慨レビューを投稿すると、あらまぁ この人 子供向けのフィクションしか知らないんだわとバレてしまいますからお気をつけなさいませ。

と、ヴィクターに激怒した20代の頃の私に言っておく。
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かなり遠回りしましたが、(いつものことだけど)

美奈子が姿を消したときに、人間達がせっかくのGPSを使わず、のこのこゲートの中に入っていくのを嘲笑したレビューもあったけれど、とりあえず美奈ちゃんにお外に出てもらわないことには話が続かないんだってば。
単に不自然とかご都合主義と言われないように、人間はミスをする生き物なんだという、警告のテーマ性をからめてあるわけだし、
嘲笑と酷評に明け暮れている人は、気が動転してミスったことが一度もない人なのか?
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※『ジュラシック・ワールド』に絡めて言及したかった部分はここまでなのでいったん中断。
でも、小説『フランケンシュタイン』に関してはもちっと続くんじゃ。でもそれはまた後日に。
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【撞着語法 oxymoron】

くそ、トータルで2万字越えそうだヤバイ。

前述のコレ↓

>ポイント3
抽象的なテーマが優先で、そのため、ストーリーに辻褄の合わない箇所、骨格が露出してしまっている部分がある。

 …露出してしまっている、
 
と、不可避的なミス のような書き方にしましたが、撞着語法的に意図的にぶつけている可能性もあるので追記。

撞着語とは、詩作におけるレトリックの一つで、本来は同居し得ない、相反する形容を連ねる表現。
雄弁な沈黙、豊穣の荒野、眼も眩む闇の帳[とばり]、静止する海、悠久の刹那、残酷な愛撫、甘やかな処刑

? 何!? と、注意喚起し、読者にいったん立ち止まって、自分で考えて、文脈から意味の模索を促す。
考えなしに多用すれば「無駄にわかりにくい」「衒学趣味」との謗りを受けよう。
ココ一番の深い理解を求めるときの決め球的な使い方が望ましい。
ポピュラーな例では「小さな巨人」とか。聞いたことありますよね。
「小さな」は物理的な意味で、「巨人」は心理的な意味合いで、小柄だが偉大な業績を成した人、のようなケースに使われるが、あまりに定番になると撞着語法としての効果が薄れる。あえて逆を行って、巨人族の中では比較的小柄な奴 という意味で使ってみたりオロナミンCだったり。
ドブネズミみたいな美しさだったり。

形容詞、副詞、形容動詞、という単語の連結ではなく、形容詞節、副詞節、といったセンテンスの掛け合わせで、より複雑な撞着語法を作り上げるケースもある。

映画の語法で、一連のシーンとシーンの連結で、妙に辻褄が合わない、? なにこれ? 何なのコレ!? という状況を作りだして、観客の注意を引きつける。伏線の係り結びも広義に解釈すれば映画独自の撞着語法と言えるのではないかと。

だから当初は『ジュラシック・ワールド』の欠点 のように思われた、翼竜大暴れの中でのキスシーンとザラの非業の最期が近距離に配置されているのも、意図的なものだと思われるのです。
反りの合わない状況を配置して観客に「なぜ?」と考察を促す意図ではないかなと。

私は、気持ちの上では素直にこの映画おもしろかったと思ったし、でもどうにも承伏できないこのシーンあのシーン…をたどって、ここまで来たわけですから。

主役カップルのチューをさっさと森の中ででも済ませて(その方がずっとラブラブろまんちっくですわー、絶好の木陰や草むらがいっぱいあるのに何やってたんだオーウェン、ザラの死の場面から遠ざけることだってできたはず。
でも、来訪客が翼竜に襲われて死傷者が多数出ていて、身内のスタッフが食われる中でのチューです。
大勢の観客が、比較的高評価のレビューでも、このシーンには首を傾げている。誰だって「変だな」と思うでしょ。制作側だけが気づかないってわけがないんです。

やっぱ意図的なもんだろーよ。

なんでもかんでも買いかぶって誉めてりゃいいってもんでもないが、(屁理屈で駄作を誉めてイイ子ぶりっ子したがる奴には同調しない)、他の部分の伏線の貼り方や、パスティーシュの試みや、過去作品へのオマージュの手際の良さなどを鑑みると、「4」の制作スタッフは初歩的なミスを犯すようには思えない。

斟酌の余地のある作品か、買いかぶるまでもない駄作か
見分け方の目安として(絶対的な尺度ではない。あくまで目安にすぎませんが)、

よく吟味され練られた作品ってのは尺を無駄にしないんです。
一つのシーンに二重三重の意味が掛けてあったり、オープニング早々に、全編に関わる伏線がビシバシ貼ってあったりする。
ライフ・オブ・パイ』に至っては、ファースト登場人物がアレですからね〜

ジュラシック・ワールド』も、しょっぱな、観客がまだ寝起きの状態、恐竜の島についてからが本編の始まりだと油断しているところにもう伏線がはってある。



だから、酷評殺到のザラの最期は、欠点や失敗ではなく、「1」の志を受け継いだ結果の、警告だというのがワタクシの結論です。